リチャード・セラ《エクス》

 リチャード・セラの作品は、空間に違和感を与える。鉛や鉄といった物質でできた重みのある巨大な板が、ある場所に差し込まれる。その板は、私たちを見下ろし、私たちを包み込み、あるいは私たちを阻む。そのすべてが、私たちに空間を感じさせる。その意味では、それは建築にも近いが、有用性というものを一切放棄するそのありさまは明らかに芸術作品だ。

 パブリックアートどころか、ときに空間の障害物となるセラの作品は、多くの議論を呼んできた。代表的なものが、ニューヨークのフェデラルプラザに1981年から1989年まで設置されていた《傾いた弧》である。広場を通る人々にとっては邪魔な代物でしかなかったであろうこの作品は、撤去を求める何千人もの人々の署名によって、解体され倉庫に納められることを余儀なくされた。一方で、2004年にトロントピアソン空港に設置された《傾いた球》は、免税店を遮るように堂々と置かれているが、こちらは「邪魔」というよりも、空港を利用する人々に非日常を楽しませているように見える。

 シャトー・ラコストの敷地内には多くの作品や建築物があるので、セラの作品《エクス》が特別に目立つわけではない。それでも、緑の大地から唐突に顔を出す錆色の板は、風景を遮り、あからさまに不協和音を醸し出している。鉄と銅と亜鉛からできた素材の板は、三つあって、それぞれが異なる高さに配置され、異なる方向を向いている。傾斜をのぼっていき、三つの板をそれぞれの角度から眺めてみると、その金属の板は違った色合いを見せる。

 それらは、環境への調和でもなく、美しい風景の一部でもない。だからと言って私たちに不快感を与えるわけでもない。それは、空間に違和感を与えることによって、私たちが今ここにいることを確認させているように見える。

 南フランスの光を受け、雨にあたるこの作品は、金属で作られているのだから、徐々に色を変えていくだろう。

 そういえば、この金属の板と同様のものを、私たちはどこかで見かけなかったか?そう、私たちは鉛の板でできたアンゼルム・キーファーの作品を、イメージと物質のあいだにあるものとして語った。さらにはそれを、作品がもはや表象ではなく、何ものかの、あるいは作品そのものの露呈となったことのエビデンスとして提示したのだった。セラの作品は、イメージを完全に放棄した「物質」であり、それはまた、キーファーの作品以上に「さらされる」ものである。文字どおり、それは日にさらされ、空気にさらされ、雨風にさらされ、そのために日々色合いを変化させていきながら、シャトー・ラコストをめぐる私たちの視線にさらされている。


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