シャトー・ラコストの方へ 1

 人生を変える旅に出る。いつもそんな大げさなことを言って、旅の支度をする。それでも今回は特別だ。シシィは、私が「言い張って」シャトー・ラコストを目的地に選んだと、だれかれ構わず説明した。そう言われれば、そうかもしれない。日本からパリまで十二時間、パリからマルセイユまで一時間、マルセイユからシャトー・ラコストまではさらに車で一時間。思い描くだけでも遠い道のりだ。ひとりでは、とても辿り着ける気がしなかった。だから、何年も躊躇して、シャトー・ラコストを旅の目的地にすることを放棄していたのだ。いつかは行かなければならない場所、準備さえ整えば。そう自分に言い聞かせた。時が満ちたのかどうか分からないけれども、今年のはじめに思い立ってシシィを誘うと、案外あっさり受け入れてくれ、それから先は旅の計画が調子よく進んでいった。私たちがその土地に「お呼ばれ」されているみたいに思えた。

 シャルル・ド・ゴール空港に着いたのは、フランス時間の夕方だった。まだ十分に明るかった。緩やかな春の日差しが私たちを迎えていた。翌朝の便でマルセイユに立つことになっていたから、旅の初日の夜は一泊だけ空港の近くに宿をとっていた。私たちは、軽い夕食を買おうと、空港のパン屋さんに立ち寄った。ショーケースに綺麗に並べられたパンはどれも魅力的だった。私たちが選び出したのは、サンドイッチとキッシュ。フランス滞在の初日にふさわしい食事だ。

 空港は随分と空いていて、私たちのバカンスがいかに季節はずれであるかを示していた。サンドイッチをのんきに選んでいる間に、人々はどんどんはけていったのだろう、いつもであれば長蛇の列の入国審査もするっと通り抜けた。私たちのスーツケースだけが、くるくると回るベルトの上で、お迎えが遅い主人たちを待っていた。

 ホテルにはすぐにたどり着いた。ほとんど空港と繋がっていたので、外の気温がどのくらいなのかわからなかったけれども、おそらく寒い。日本時間でもう真夜中を過ぎていたので私はすでに眠かった。飛行機の座席のかたちに固まった体に熱いシャワーを浴びて、血液を流す。長いフライトの後では、シャワーを浴びるということがとても贅沢だ。

 小さい部屋ではあるけれども、清潔で快適という最低条件は満たしていたので、私たちは満足だった。シシィはマイシーツを持参してきていて、用意周到だった。それに、シシィのスーツケースには暖かい服がいっぱいに詰まっている。私はと言えば、南フランスがとっくに春を迎えていることを期待しすぎて、薄手のワンピースやスプリングコートしか持ってきていない。シシィの厚手のニットが少し羨ましい。私のスーツケースは、いつもの旅行と同じように、半分が空っぽで、この旅のうちに手に入れたものを詰めこむのに十分なスペースを残していた。いつもの旅行のように、そのスペースをぱんぱんにして帰ることだろう。

 すとんと眠りに落ちた。いつからか、シシィとひとつのベッドに寝るのは慣れてしまった。私たちは、二人の旅を重ねている。イスタンブール、ウィーン、フィレンツェ、パリ。シシィとの旅行は、いつだって「人生を変える旅」だ。

 朝早くに快適に目覚めた。すでに旅は始まっているのに、今日から旅が始まる、とまたわくわくした。「よいベッドでした。」シシィからベッドにお褒めの言葉が与えられる。

 私たちは七時前にホテルをチェックアウトした。旅行の初日の朝ごはんは、ラデュレのケーキ。シシィはレモンケーキ、私は「マリー・アントワネット」という名前のケーキを選んだ。朝から甘いもので甘やかす。

 飛行機に乗り込むときに、パリの冷たい空気を感じた。外は寒そうだ。飛行機の窓に、小さな雨粒があたっていた。エール・フランスにしては珍しく時間どおりに出発した。「雨が止んだね。」シシィが言う。「いや、私たちが雲の上に来たんだよ。」私たちは真っ青な空間を飛んでいた。時空を超える旅、シシィはそう表現するかもしれない。今ここで、この真っ青な空の中にいることが心地よい。その空間のなかで、私はノートに昨日の出来事を書きつけた。大きな文字でちょうど二ページ。書いたばかりのものをシシィに渡して、そして目を閉じた。エクサンプロバンスが私たちを待っている。私たちの旅は、祝福されている。 

 短い眠りから覚めると、飛行機はまもなくマルセイユに到着しようとしていた。パリからひとっ飛び、あっという間だ。テーブルの上の私のノートに目をやる。トレイシー・エミンというアーティストがネオンで文字を作ったりするが、そのエミンのネオンの文字くらいに大胆な文字が書き込まれている。あまりにも大胆な文字で大胆な質問を書きなぐっているので、私はくすりと笑ってしまう。

「わたしが聞きたいのは、、あなたがわたしを本当に必要としていたときに、わたしはあなたのそばにいたかしら、ということ。二十五年も一緒にいるけれど、わたしが気にしているのは、あなたがわたしを本当に必要としていたときに、わたしはあなたのそばにいたかなってこと。」



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