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シャトー・ラコストの方へ 3 フォルカルキエ
ヴィラ・ラコストの夜明けはゆっくりとしていた。昨夜早くに寝てしまったせいもあって、私は朝五時には目が冴えていた。いつもであれば猫に叩き起こされて朝ごはんをせがまれている時間だから、目が覚めてしまうのも当然かもしれない。せっかくだから、と起き上がって、大理石のお風呂にお湯を張る。お湯に浸かり、蜂蜜のボディ・スクラブで体を磨いた。身体が蜂蜜の膜に包みこまれるような感じだった。遅刻気味の太陽が昇り始めたのは、七時を過ぎた頃だった。
この日は、前日とはうって変わってどんよりとしていた。それでも、素敵な朝食が気分を爽やかにしてくれる。人参と生姜のジュース、キヌアのケーキ、クロワッサン、丸い形に整えられたスクランブルエッグ。豊かな食事で私たちの一日がスタート。今日は特別な日だ。
私たちは、朝食を終え、身だしなみを整え、用意すべきものをそろえた。ある種の遠足だから、忘れ物がないようにしないと。ロビーでエリックが待っていてくれた。エリックは相変わらず素晴らしい笑顔で、本日の私たちの運転手、フランソワを紹介してくれた。
フランソワはとても陽気なおじいさんだった。イースターの祝日に働かせて申し訳ないと言ったら、仕事が好きだから全然構わない、と言った。フランソワはおしゃべり好きで、流暢な英語でしゃべっていた。ドライバーになる前はスポーツ用品の会社で働いていたこと、日本に出張で来たことがあること、カリフォルニアに住んでいたこと、二回結婚をしていること、最初の奥さんはアメリカ人でエクサンプロバンスの核燃料サイクル施設で通訳の仕事をしていたこと・・・。私たちが昨日は夕方からロゼワインを飲んで酔っ払ったと言ったら、枕投げはしたのかと聞いてきた。楽しいおしゃべりで、フォルカルキエまで一時間のドライブは退屈しなかった。
山の上の方へ上の方へと上っていった。中世のプロヴァンスの首都だったフォルカルキエは小さな古い街だけれども、この日はちょうど月曜日で、人々で賑わっていた。毎週月曜日に市場が出るからだ。石造りの道々に所狭しと花や野菜を売る人たちがお店を広げている。フォルカルキエは急な丘になっていて、その頂上にはシタデルという要塞の跡地にできた教会が見える。
フランソワと二時間後に待ち合わせの約束をして、私たちはいそいそと歩きはじめた。私たちがこの街に来たのには、ある理由がある。私たちがエクサンプロバンスやマルセイユではなく、今ではほとんど知られていないこの小さな街に行きたがったことをエリックやフランソワは不思議に思ったかもしれない。
私たちはある場所を目指して、歩き始める。竹下という男が指示を出していた。かれのヴィジョンに従ってまちを歩く。はじめは見当違いな方向にすたすたと歩いてしまったが、引き返してシシィの気の向くままに進み始めてからは、びっくりするほど順調だった。グーグルマップよりもシシィの嗅覚に従ったほうがいい。目印が目に入った。「シシィ、こっちだ。」 私たちは、ローマ時代にできた水道橋を目指していた。その橋の上で、ある待ち合わせをしていたのだった。その方は、シシィの歌を聴きたがっている。その方のために、わたしたちはワインまで鞄にしのばせていた。目の前に無機質な橋が見えた。
ここだ。いや、無機質なのは道路に取り付けられた柵であって、橋自体は石造りの巨大なずっしりとしたローマ時代の建築物だった。「ねえ、これなの?」「どっち側だと思う?」 私たちは橋の下を覗き込む。 びっくりするほど深い。下には小さな川が流れているはずだけど、川は見えなかった。ピンクの小さな花をつけた木が何本か見え、フォルカルキエの春を知らせていた。
彼女はどこだろう。白ワインやローリエを捧げる。シシィが歌いだした。音楽があるだけで、目の前の風景ががらりと変わる。そのときだった。
フランソワとの待ち合わせまで、あと二十分。私たちは、中世の要塞の跡に建てられた教会へと向かう。急な坂道で、息がきれる。石造りの古い古い建物に囲まれた狭い坂道を上っていく。私は比較的とことこと順調にのぼっていくけれど、シシィは途中で座り込んでしまった。石造りの階段をうまく使って休憩している。どこかの時代に紛れ込んでしまったようだった。おそらく数百年前のひとも、同じこの光景をみたはずだ。つまり、数百年前の私たちも。バルコニーから顔を覗かせたおばあさんに「こんにちは」とあいさつするけれど、まったく現実感がなくて、いま、目の前のひとに話しかけているかんじがしない。
ぱっと振り返ると、下には街が見えた。さっき私たちがいた水道橋も見える。わずかなあいだにこんなにのぼってきた。「シシィ、さっきの橋が見えるよ。」息を切らせるシシィに、橋を指差した。私たちは水道橋の方に向かって、そのお方に向かって、手を振った。そして、また上へと登っていく。
要塞の頂上には、小さな八角形の教会がポツンと立っていた。思いのほか小さな教会で、扉は閉ざされている。周りをぐるりと一周する。教会のとなりには、取ってつけたようにパイプオルガンが置かれている。ここで演奏すると街中に響くのだろうか。パイプオルガンはぴかぴかで、この場所にはなじまなかった。なんだか時代が入り混じっている。
フランソワとの約束の時間が迫っていた。「ちょっと遅れるね。」シシィがフランソワに電話してくれる。なにやらフランソワは、私たちが大問題に巻き込まれていると電話口でまくしたてていた。「オッケー、戻ったら話しましょう。」
待ち合わせの時間は延ばしてもらったとしても、 丘を降りていくのも簡単ではない。上りの方が簡単だと思えるくらいだ。急な斜面を滑り落ちないように地面を踏みしめて用心深く歩く。上ってきた道とは別の道から降りてみたが、こちらもびっくりするほど古びた建物が立ち並び、毛の長い猫たちがおしゃべりしている。石に音が吸い込まれそうだ。市場の方へと戻ると、やっと「現在」に戻ったかんじがした。
市場でフランソワと合流した。フランソワはわたしたちを車に押し込めて、そそくさと出発すると、私たちの「大問題」について話し始めた。私たちが乗るはずだった、翌日のパリ行きの鉄道TGVがキャンセルされたという。私たちはエクサンプロバンスに二泊して、そのあとパリに行く予定だった。それが、TGVのストライキが翌日から始まり、私たちの電車はキャンセルが決まったという。フランスのTGVはいわゆる「国鉄」で、民営化(私営化)されていない。日本人である私たちにはなかなか驚くべき事態だが、二日間の鉄道のストは確定してしまった。
さて、パリに行く方法は?エリックがドライブ中のフランソワを遠隔操作する。フランソワの運転しながらの電話にはらはらしてしまった。「ブルートゥースにするから大丈夫さ」フランソワは典型的なフランスの男性に見える。エリックは電話口から、次から次へと目まぐるしく変わる状況を実況してくれる。今夜九時の TGV、明日のナント経由の飛行機(ひとり600ユーロ!)、あさっての飛行機・・・金曜日の日本行きの飛行機に滑り込むためにありとあらゆる方法を画策する。私たちもだんだん面白くなってきて笑ってしまうし、フランソワに至っては爆笑しはじめる。「ディズニーランドに泊まるのはどうかな?」「アムステルダム経由でパリに行った方が早いぜ。」「車なら6時間だ。」「ストライキはフランスの国技なんだよ。」ほんと、これって、私たちに与えられた休暇なのか冒険なのか。いつもであれば、自分で飛行機の検索をするだろうけれども、今回は、私たちの優秀なアシスタント、エリックに任せきりだ。
シャトー・ラコストに着くと、少し安心する。フランソワは「グッド・ラック」とかなんとか言って、引き上げて行った。エリックがめまぐるしく変わる状況について教えてくれた。「フライトの状況がすぐに変わっちゃって。」私たちはクッキーとグリーンティーをいただいて優雅にエリックの報告を待った。水曜日のフライト、つまり予定していた日の翌日のフライト、それが一番良い解決策に思えた。シャトー・ラコストの滞在が予定より一日伸びて、私たちは思いがけない追加の休暇を満喫するだろう。
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