シャトー・ラコストの方へ 5

 曇り空。今日のアジェンダは、起きて、ゆっくりとブランチをして、シャトー・ラコストの敷地内を散歩する、ただそれだけだった。私たちは十時近くに部屋を出て朝食に向かった。昨日や一昨日とはうってかわって、ロビーはずいぶんと閑散としていた。「今日はとても静かね?」シシィがローランに話しかけると、ローランはイースターの休日が終わったので皆帰ってしまったのだと言った。そんなわけで、私たちが朝食を独占する。シシィはしぼりたてのオレンジジュースがとても気に入って、毎日飲んでいる。シシィお気に入りの「ねずみ男」がいないので、 ちょっと不服そうだ。そのかわり、ローランはシシィに熱心に話しかけてくる。ピスタチオのマドレーヌが美味しい。紅茶と一緒にマドレーヌをいただき、昨日のベンジャミンの話を思い出していた。

 どんよりとした空の下であっても、シャトー・ラコストは決して私たちを憂鬱にさせたりはしない。私たちは散歩に出かけた。まだまだ見るべきものがたくさんある。たしかに休日が終わって、人々が働きに戻っている。シャトー・ラコストの敷地内でおじさんたちが工事をしていたので、平日なんだなあというかんじがした。

 まずは、シャトー・ラコストの上の方へと上っていく。リチャード・セラの巨大な錆びた鉄板が地中に埋め込まれている。風景に違和感を与えるセラの作品が、私は好きだ。どんどん登っていくと、マイケル・スタイプのキツネたちがいた。あとでわかったのは、このマイケル・スタイプはR.E.Mのマイケル・スタイプだということ。私は動物モチーフが比較的好きなので、自分と一緒にキツネたちの写真を撮ってもらった。その時だった。シシィから唐突に狼藉悪態キャラが出てきた。「おまえ、 ほんとぶりっこ。きつねさん、うふ、みたいなの、昔のアイドルかよ。ほら写真撮ってやるよ。」新しいキャラの登場に戸惑うけれども、私もここぞとばかりに昔のアイドル風に振る舞うことにした。

 丘の上の方に、小さな教会があった。安藤忠雄の作品とのこと。古い煉瓦造りの建物を、すっぽりガラスのケースで囲んだようになっている。その二重になっている様は、シャトー・ラコスト内にある安藤の別の作品《私たちの環境について考えるための四つの立方体のパビリオン》を思い起こさせた。

 教会の裏には、またぶどう畑だ。こんな丘の上の方でぶどうの世話をするのは大変そう。シャトー・ラコストの敷地内では、木々の隙間を埋めるように、ぶどう畑が点在する。私たちとすれ違う人はほとんどいない。静かなアートの散歩だった。

 リー・ウーファンの作品は、小さな小屋の前に、彼特有の石が置かれたものだった。建物には鍵がかかっていて、入ることができなかった。そのためシシィには不評。ぶどう畑を囲むような道を進んでいくと、石でできた楽しい道にたどり着く。あとでわかったのは、その道がアイ・ウェイウェイの作品だったということ。フランツ・ウェストのわけのわからない作品には私たち二人とも戸惑った。そのかわり、ブラジル人アーティスト、トゥンガの作品の前で狂喜乱舞した。トゥンガの作品は、三つあり、その三つそれぞれがクオーツをぶら下げていた。いつくかの乳白色のクオーツ、大きなかたまりの乳白色のクオーツ、それから大きな透明のクオーツ。クオーツと均衡を取るかのように磁石を積み上げた部分には、コインがいくつも張り付いていた。その作品の間から、ぶどう畑の向こうに、ジャン・ ヌーベルのワイナリー、アンドウのアートセンター、フランク・ゲーリーの音楽ホールが見える。ほんとうに贅沢な空間だった。ぶどうの木が葉をつけたら、どんなに鮮やかな光景
になることだろう。

 ヴィラ・ラコストに戻ると、エリックがいつもの笑顔で迎えてくれる。「元気?この場所に飽きちゃってない?」ピレネー男の笑顔が眩しい。「全然!とっても楽しんでるよ」エリックは、とても丁寧に、明日の飛行機のチケットを用意してくれている。


 エリックお勧めのライブラリーに行ってみることにした。その前に、オレンジ ジュースとお茶とお菓子をライブラリーに運んでくれるよう頼んだ。ライブラリーにはラベンダー色 の素敵なソファがあって、その色がシシィに似合っていた。ウォルナットの本棚にアートの本がずらっ と並べられていて、とても羨ましかった。お茶を届けてくれたのは、ローランだった。アートの本を眺めながら、美味しいお茶とお菓子をいただく。ゆっくりとした幸せな午後だ。

 私たちがライブラリーでくつろいでいると、可愛い女性が話しかけてくれた。昨夜のレストランで案内をしてくれた女性だ。「今日の食事はどうするの?ル・サロンだったら予約した方がいいか ら、早めに言ってね。」「うーん、ルームサービスにしようかなあ」「それもいいわね」シャトー・ラコストの人たちは、みんなフレンドリーで、かつ可愛らしい。

 この日の夕食は、予告どおりルームサービスを頼んだ。前々日と同じ野菜のスープにしたが、今度は一人ひとつ頼んだ。つまりは、それぞれ思い思いに鍋ごと突っつくというわけだ。あいかわらずあまりにも美味しくて一気に食べてしまった。どうしたらこんなに美味しいスープが作れるのだろう。

 私は、ベッドに転がってiPadの写真の整理をしながらワインを頂こうという魂胆で、部屋にあったロゼワインの小さいボトルを開けた。ゆっくりと夜が更けていった。

 翌朝、シシィは衰弱していた。朝食に出かけるのもままならなかったので、部屋に運んでもらうことにした。サーモンのエッグベネディクト、パンケーキ、バナナの入っていないスムージー、グリーンティー、それからいつものオレンジジュース。相変わらず何もかも美味しくて、美味しい食事はこんなに人を癒すことができるのだなと思った。 

 激しい雨が降った。シシィは霰だと言い張った。大粒の雨か霰かは、バチバチとテラスを打ちつけた。ひととおり降り終わると、うっすらと日が差してきた。うわ、虹が見えるかもしれない、と思った。私は昨年ドイツのカッ セルで見た二重の虹のことを思い出した。慌ててカメラを手に取り、部屋を飛び出した。シシィはお休み。

 部屋を出ると、エリックがロビーの前で荷物を運んでいた。「おはよー!」「おはよう、ココ。元気?」いつもの笑顔が眩しい。「あのね、二人にプレゼントがあるんだ。スーツケースに余裕があるといいけど。 シャトー・ラコストの本だよ。」「わあ、お部屋にあるのと同じのかしら?分厚いやつ?」「そうそう、それ。」私がお土産に買おうと思っていた本を、くれるというのだ!「ありがとう、エリック!」 「日本で友達に見せてあげてね。」うん、シャトー・ラコストの宣伝なら、いくらでもします!

 ぶどう畑の方に降りていくと、あれ、地面は濡れていない。私たちの部屋の周りだけにあの激しい雨が降ったのかしら。青い空と安藤忠雄の教会の写真を撮りたくて、丘の上の方へと登っていく。教会の塀のコンクリートが濡れていたので、このあたりにも雨が落ちていたのだとわかった。実は私たちの部屋と教会は、それほど離れてはいない。出口が私たちの部屋とは反対側にあるので、ぐるっと回らなければいけないのだけれども。都合の悪いことに、また空は雲に覆わ れてしまった。少し待ってみたけれども、雲の隙間からほんのすこしだけ青い空が覗いただけだった。また雨が降るのかも、と急いで部屋に戻った。 

 部屋でシシィはまだごほごほと咳き込んで、伏していた。「シシィ、エリックが本をくれるって!」私は喜び勇んでお伝えする。そして、スーツケースに適切な隙間を作るべく、荷造りを開始する。私のスーツケースには余裕で入るだろうけれど、シシィの方はどうかな。私はさらなるおまけとして、アメニティのシャンプーやらボディクリームやらも詰め込んだ。素晴らしい製品だったので、残していくわけにはいかなかったのだ。

 どうやら雨は降らずに持ちこたえたよ うで、また少しずつ青空が見え始めていた。私はもういちど散歩に出かけようと支度を始めた。トゥンガさんの作品を青空と撮らなければ。シシィが少し回復してきたので、一緒に出る。爽やかな風が吹いていた。トゥンガの作品の方へ向かうけれども、行き方を間違ってオリーブ畑に出てきてしまった。このオリーブの樹たちがあの絶品のオイルを生み出しているんだ。シシィはシャトー・ラコストのオリーブオイルをいたく気に入って、お土産に一本買った。オリーブ畑の向こうに、安藤とヌーベルとゲーリーの建築物が見える。巨匠の建築を、文字どおり、一望できる。

 ヴィラ・ラコストに戻った私たちは、レストラン「ル・サロン」でランチを頂こうと、下の階へと降りて行った。ほとんど人がいなかった。私たちは窓際の席に案内された。庭にカメリアの花が咲いている。メニュー はあってないようなもので、お店の若い三つ編みの女性が「いろいろな野菜を入れたサラダがいいんじゃない?」と勧めてくれた。お米に飢えていたので、お米もつけてもらい、また、地中海でと れたという「マグロのような魚」も入れてもらった。最初に出てきたフガスが美味しい。オリーブオイルをつけると、さらに美味しかった。「ルッコラ、インゲン、キノコ、トマト、セサミ・・・とにかくいろんな野菜が入っているわ。」英語での説明が面倒くさくなってしまったのか、はにかみながら女の子が大きなお皿に入ったサラダを差し出した。「お米も持ってきてくれるのね?」シシィがきちんと確認する。サラダには、「マグロのような魚」も、良い加減に炙られて添えられている。たしか に「とにかくいろんな野菜が入って」いて、どれを食べても完璧に美味しかった。後から出てきたお米(それはワイルドライスだった)を混ぜて、むしゃむしゃ食べるのは本当に幸せだった。シシィも私も長年のベジタリアンであるけれど、それが祝福された瞬間と言っていいのだと思う。シャトー・ラコストにて、ベジタリアン魂がその念願を叶えた、というかんじだ。


 プールのある庭を散歩しつつ、ロビーに戻って行った。エリックがシャトー・ラコストの分厚い本を二冊持ってきてくれる。エリックとも、もうすこしでお別れだ。「今日は僕は早く帰らなければならないから、空港までは彼が送っていくよ。」 エリックは少年みたいな若い男性を紹介してくれた。「ありがとう。では三時にね。」私はこの空間を離れるのがちょっと寂しくなって、バシバシとロビーの写真を撮った。たった四日のうちに見慣れてしまったけれど、ロビーにもたくさんの作品がある。レジェのタピスリー、ブルジョワの蜘蛛の写真、壺、能面。そして個性むき出しのソファ。なんの統一感もなく、カオスな空間だけれども、もうすっかり馴染んでしまった。

 私たちは部屋に戻って荷造りを終わらせた。もういちど、部屋をぐるりと眺めてみる。ひとつだけ、これがなければいいのにと思うものはあったけど、概ね完璧に近い部屋だった。「こういう部屋に住みたいな。そんなに広くなくても大丈夫だよね?この間取りで十分だな。あとは、キッチンをどこに置くか、だけど。」自宅をこういう風にできたらな、と無邪気に思いをはせる。もちろんここで重要なのは、一面にガラス張りにした窓から見える緑であり、空なのだけれども。

 私たちは、部屋にさよならを言った。お世話になりました、ありがとう。身震いするであろうお会計に覚悟を決めて、チェックアウトをお願いした。明細を確認してみる。私たちの持ち合わせているどんぶり型の計算機による予測金額とほぼ一致していたので、まあこんなものでしょうね、とうなづいた。

 お支払いをしていると、黒縁眼鏡の初老のお洒落なおばさんが話しかけてきた。 「TGVのストライキで一泊長く泊まったんですってね。」なんとそれが、このシャトー・ラコストのオーナーの妹さんだった。シシィは、ああ、あなたが、と色々と聞き出す。こんな素敵な場所を運営している方が目の前にいて、気さくに話しかけてくれる。私は子供みたいにただニコニコしているしかできなかったが、シシィはすぐにお友達になれそうな雰囲気だ。 

 出発のときがきた。エリックやローランにさよならを言って、車に乗り込んだ。私たちは「お呼ばれ」するようにこのシャトー・ラコストに来て、そして「お引き留め」された。この旅は私たちとって単なるレジャーでもリフレッシュでもなくて、ある意味での「ルネッサンス」だった。


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