アンゼルム・キーファー もうひとつのモーゲンソー・プラン

 二〇一二年末から二〇一三年のはじめにかけて、キーファーはパリ周辺で同時期に二つの展覧会を行った。ひとつはガゴーシアン・ギャラリーの「モーゲンソー・プラン」、もうひとつはタデウス・ロパック・ギャラリーの「まだ生まれていないもの」である。どちらの展示でも、麦が重要なモティーフとなる作品が展示されていた。
 「モーゲンソー・プラン」の方は、ひとつのインスタレーションと数点の絵画で構成された展示である。まず最初に、《モーゲンソー・プラン》というタイトルがつけられたインスタレーションがある。それは、フェンスで囲まれた床の上に砂が敷かれ、その砂の上にたくさんの麦が乱雑ではあるがとても豊かに配置された作品だ。砂漠に生い茂る麦のように見える。実った麦の穂先には金色の塗装がなされて光り輝いている。フェンスは四つの方向に開いていて、そこから何本かの麦が外に向かって飛び出している。砂の上には、青銅色の蛇や本のオブジェが麦の足下に隠れるようにして散らばっている。壁には手書きで「モーゲンソー・プラン」という文字が書かれている。
  モーゲンソー・プランとは、第二次世界大戦中にアメリカで立案された、戦後のドイツ占領計画の名前である。終戦前から、すでに、戦後のドイツをどのようにするのかの案が練られていた。モーゲンソー・プランは、ドイツをいくつかの国家に分割するとともに、重工業を担う地域、特にルール地域を破壊し、ドイツを農業国にしようとするものだった。工業を破壊してドイツを弱体化すれば、再び軍国化の道を歩むことがないと考えられたのだ。だが、アメリカ国内で意見が分かれた。その結果、最終的にはモーゲンソー・プランではなく、マーシャル・プランが採用されることになったのである。モーゲンソー・プランのネックとなったのは、ドイツが戦勝国に負うことになる多額の賠償金だった。ドイツの工業を破壊してしまうと、賠償金の資金源を断つことになる。戦勝国が賠償金を回収できなくなってしまうことを恐れたために、モーゲンソー・プランは断念され、幻のプランとなった。
  キーファーは、この実現されることのなかった計画、多くの人には非現実的と思われた計画 を、インスタレーションや絵画という芸術の領域で「実現」してみせた。キーファーの 《モーゲンソー・プラン》では、おそらく、フェンスによる囲い込みによって分割が示され、砂によって破壊の跡が表現されている。砂は、一般的には、砂漠の不毛を思い起こさせる。ところが、この作品の砂の上には、麦がたくさん生い茂り、穂は黄金に実っている。不毛な砂の上に黄金の麦が生い茂っているのだ。この作品における麦は、農業を示しているとともに、ドイツの大地そのものを表しているように見える。
  また、《モーゲンソー・プラン》のインスタレーションと一緒に、油絵の作品が5点展示されている。インスタレーションの《モーゲンソー・プラン》の絵画バージョンと言えるものだ。いずれも畑か野原の光景であり、色とりどりの花によって埋め尽くされている。かつてキーファーが描いていたような暗い大地ではなく、白をベースとした花の咲き乱れる大地だ。  実現されることのなかったモーゲンソー・プランが、二十一世紀のパリ郊外のとある倉庫の中に「実現」されている。 色とりどりの花が乱雑に咲き乱れる大地の絵画や、黄金の麦からなる「モーゲンソー・プラン」の展示全体は、敗戦後の荒廃したドイツを表しているというよりは、むしろユーフォリックな空間に見える。それは、ありえたかもしれない過去のイメージ化、つまり潜勢態の世界なのだ。別のあり方でもあり得たということ、そして、今なおそれは潜勢力として存在しているということが、「モーゲンソー・プラン」という作品にユーフォリックな雰囲気を与えているように見える。
  さて、「モーゲンソー・プラン」と同時期に行われたもうひとつの展示である「まだ生まれていないもの」でも、麦がひとつの主要なモティーフとなっている。「まだ生まれていないもの」にはいくつかの麦畑と思われる光景を描いた絵が展示されている。「モーゲンソー・プラン」で展示されている絵画群と類似した作品である。ただし「モーゲンソー・プラン」の絵画が白をベースにしていたのに対して、「まだ生まれていないもの」の麦の絵画は基本的に黒をベースとしている。その黒をベースとした色合いの畑の上に、金色で麦が描かれていたり、金に塗装した麦のオブジェが貼り付けられたりしている。
  ここに展示されているいくつかの作品に、《Mutterkorn》というタイトルがつけられている。麦畑を描いた油絵や、裸の横たわる女性の上半身の絵と麦の絵が組み合わせられた水彩画である。Mutterkornとは、語を分解すると、Mutterが母親を意味し、Kornは 穀物を意味する。水彩画に描かれた女性の上半身と麦の絵の組み合わせが、まさに「母親」と「穀物」を描いているため、Mutterkornとは「母親」と「穀物」のことのように思われ、一見したところ、出産や豊穣のメタファーとして読み取れる。しかし、実は、Mutterkornは「麦角」と訳される言葉である。麦角とは、穀物に寄生する強い毒性を持った菌のことだ。麦角菌はかつて多くの人に病気をもたらし、死に至らしめたという。そうすると、《Mutterkorn》は出産や豊穣のメタファーなのではなく、むしろ死を暗示している。豊穣の裏に隠された死とも言えるだろうか。そのように考えると、ここに展示された麦畑の絵画は、二重の意味を持って見えてくる。毒性を持つ麦角が普通の麦の間に混合して存在しているように、豊穣の中に死の影が潜みこんでいるという印象を与える。キーファーの麦は、単に生のメタファーなのではなく、死をも含み込んでいることになるだろう。
  麦が変化を示す物質であるということは、先に引用した多木浩二も指摘している。その変化とは、物質や状況の変化でもあり、そしてまた、意味の変化でもある。


 「おそらくキーファーにとって、鉛や藁のような物質には、こうした人間を超えた力につながる鉱脈が知覚できるにちがいない。しかしそのことはこうした素材が登場すると同時に、キーファーが画面をつくる上での図像学、あるいは絵のもつ物語があらたに組み立て直されたことにも現れている。物質と意味とは一体化し、切り離されないことを示している。絵画とは、キーファーにとって、意味が生成される物質的な場をつくることである。先に引用した彼の言葉を借りれば失われたものを考古学的に掘りかえすのではなく、反対にいま生成しつつある考古学的状態としての現在を出現させることである。時間(歴史)の意味が変わったのだ。いまわれわれは歴史のどこにいるのか。物質はこの生成の比喩を産出する装置になる。たんに層を重ねるだけならば静止だ。層をかさねていってイメージが解体するようになるとき、生成の可能性がうまれる。彼は芸術を根本的なカオスから生じ、未知なるノイズの秩序に達するものと考えているのだ。」(多木浩二『それぞれのユートピア - 危機の時代と芸術』青土社、1989年、41頁)


  作品のなかに取り入れられた物質は、「生成」と結びつけられる。多木が述べている「生成の比喩を産出する装置」あるいは「層をかさねていってイメージが解体する」ということは、ここにも具体的に表れている。「モーゲンソー・プラン」および「まだ生まれていないもの」で展示されているいくつかの油絵の作品で、キーファーは、写真を貼り付けたキャンバスの上に油絵の具で絵を描いているようである。厚く塗られた絵の具の隙間に、引きのばされた写真がところどころに覗いている。ほとんど塗りつぶされているので、それが何の写真であるか正確には分からないが、おそらくは麦畑や野原の写真だと思われる。それらの写真の上に、キーファーは油絵の具をのせて、麦畑や野原を描いている。キーファーが真っ白いキャンバスに描くのではなく、わざわざ写真のイメージを敷いてそこから絵画を始めようとするのであれば、それは何を意味するのか。写真とは、過去のある瞬間に切り取られ固定されたイメージであり、そしてまた「歴史のプロセスの証拠物件」であり、不在を表しているとも言われる。そのようなものである写真をベースにして、キーファーはその上に絵の具で何かを描く。イメージを描きなおし、上書きするのだ。それは、イメージの固定に対する抵抗であり、意味が剥ぎ取られた証拠物件としてのイメージにあらたに意味を与えることであり、不在を埋めようとする行為であるのかもしれない。写真のイメージをベースにして、そこから絵画が生み出される。もちろん下地となった写真は消え去ることはなく、そこにずっと、ほとんど見えないものとして残り続けている。もしかしたら、やがて絵の具が剥離して写真が現れ出てくるということがあるのかもしれない。キーファーはそのような可能性さえも残しているのではないか。キーファーは写真の上に描くという手法によって、絵画が今ここで生成されるものであること、そこにあらたな意味が生み出されるということ、それ自体を作品化している。
  このことは《モーゲンソー・プラン》のインスタレーションについても同じだ。砂の上に麦をのせて、キーファーは、実現されなかった過去、ありえたかもしれない過去を作品で再現してみせる。そこで実際に何が生み出されるのかということは特に問題ではない。問題となるのは、作品を作ろうとすること、何かを生成しようとすること、それ自体なのだ。  そうしてみると、麦とは、生成を表すのに非常に適したモティーフである。麦畑は種まきから収穫までのサイクルの中にあって、絶えず変化していくし、そのサイクルは際限なく続けられる。キーファーはナチス・ドイツを建築で表現していた。建築が閉じた空間であるのに対して、麦畑は開かれた空間だ。建築が、朽ちることへと一方的に変化していくものであるのに対し、麦畑は生成や再生を繰り返す。そうした麦畑を通してキーファーは、戦後のドイツを象徴させているのではないか。麦で表される戦後のドイツとは、生成のなかにあるものなのだ。キーファーの麦の絵に常に不毛さと豊かさの両方が含み込まれているのは、そのような生成のうちにある不安定なものだからなのかもしれない。キーファーが麦で表現する戦後のドイツは、生成中のもの、すなわち完結することのないものとして描かれているのである。


 *この文章は「現代共同体論の展開と芸術の変容 : 表象からエクスポジションへ」の一部です。全体はhttps://tufs.repo.nii.ac.jp/record/1076/files/dt-ko-0195.pdf から参照可能です。

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