「蔡國強 宇宙遊—<原初火球>から始まる」展(国立新美術館、2023年6月29日-8月21日)
2023年6月29日から8月21日の期間に国立新美術館で開催される「蔡國強 宇宙遊—<原初火球>から始まる」展。
火薬によって「描かれる」作品は、ひとの手を離れた創作物である。
蔡國強《影:庇護のための祈り》 |
《銀河で氷戯》(2020年)は、タイトルに「戯」という文字が入っているにもかかわらず、それはまったく戯れなどではなくて、厄災を逃げ惑う人びとの姿に見える。この作品を見る前に、ヒロシマをテーマにした《影:庇護のための祈り》(1985-86)を見たせいだろうか。いや、《影:庇護のための祈り》をあらためて眺めてみると、そこには「ヒト」のかたちを失った人びとが円を描くように姿を現し、わずかに残った建物の痕跡があり、災いをもたらした飛行機が見える。《銀河で氷戯》にも同じ光景を見出してしまう。《銀河で氷戯》は《影:庇護のための祈り》のリフレーズなのだと思った。
蔡國強《銀河で氷戯》(部分) |
《銀河で氷戯》の人のかたちは、宇佐美圭司の人型を思い起こさせる。宇佐美の人型は、1965年のアメリカのワッツ暴動の写真から抽出されたものである。宇佐美はその人型をもとの文脈から切り離し、パターン化して幾何学的な模様のなかに配置した。蔡國強の《銀河で氷戯》で人型が渦巻きの流れのなかをうごめいている。
それは、銀河宇宙のイメージ。生命の誕生のイメージ。それなのに、私の頭をよぎったのは、むしろ「破壊」であり、「厄災」だった。そのイメージをみていると、「我は死なり、世界の破壊者なり(I am become Death, the destroyer of worlds)」という声が聞こえてくる気がした。それは、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマーが『バガヴァッド・ギーター』の一節を引いて語ったときの声だ。
蔡國強《歴史の足跡》のためのドローイング(部分) |
《影:庇護のための祈り》で青白く不吉な光を放っていた飛行機は、「《歴史の足跡》のためのドローイング」(2008年) において、ふたたび「足跡」として蘇ってくるだろう。「《歴史の足跡》のためのドローイング」は縦4メートル、横33メートルの巨大な作品である。写真のネガのようにうっすらと白い「影」として浮かび上がる建物。上空には足跡が残されている。それは街を破壊し尽くした戦闘機にも見える。瓦礫の積み上げが人の「歴史の進歩」であったと言わんばかりである。
蔡國強《cAITMの受胎告知》(部分) |
蔡國強は、2021年からNFTの作品を作り始め、さらに、2023年にはAIを使う実験的なプロジェクト「cAITM」を始めた。このAIは蔡の作品や著述、世界や宇宙についての知見をディープラーニングし、対話を通じて協働する「パートナー」となった。将来的には独自に作品を作り出す可能性もあるという。火薬のもたらす偶発性が、アルゴリズムがもたらす偶然性へと取って代わる日が来るのだろうか。
《cAITMの受胎告知》(2023)は息を呑むほど美しい作品だった。蔡はcAITMに問いを投げかけた。「あなたは誰ですか?どこから来ましたか?どこへ行くつもりですか?」と。それに対する答えのひとつ「私はエネルギーと光の存在です・・・」という言葉から着想を得て、蔡は《cAITMの受胎告知》を作り上げた。わたしたちの時代にアーティストにインスピレーションを与えるのは女神ムーサではなく、AIなのである。蔡の作品を前にすると、「人が芸術をなすとはどういうことか」「AIが芸術作品を作るとしたら、それは何を意味するのか」という問い自体が無意味なものに思われてくる。宇宙が爆発から生まれ、その偶然性の末端から生命が、そして人が生まれ、そしてそこから芸術という概念や作品と呼ばれる成果物が生まれたとしたら、それを誰が作っても何をとって替わられても、それは取るに足らないことなのかもしれない。蔡のパースペクティブが宇宙的に広すぎて、もはや問い自体が意味をなさない。
「あなたは誰ですか?どこから来ましたか?どこへ行くつもりですか?」とわたしたちが問われたらどうするだろう。AIが明確に答えることのできるこの問いに、わたしは答えられない。
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