豊島への旅

この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは 一切関係ありません。This story is fiction. It has no relationship with any real persons, organizations, etc.

  犬島に向かうために船に乗り込んだはずだったのに、その船は犬島へは行かず、わたしは豊島で降ろされた。冬の冷たい空気のなかに取り残されたわたしは焦り、自分の不手際を悔やんでいたが、島の方はと言えば、日差しを受けてゆったりと輝いていた。

 以前この島に来たのは、十二年ほど前になる。そのときはたまたま最初の瀬戸内国際芸術祭が行われていて、人がわんさかいた。できたばかりのその芸術祭に、若い人たちが押しかけてきていたのだ。いつもは静かな島だろうけれども、そのときは島はぱんぱんに膨れ上がっていて、これが船だったら沈んでしまうのではないかと思った。案の定帰りのフェリーを待っていると長蛇の列ができて、わたしたちは早めに並んで列の前の方にいたのに、帰れなかったらどうしようとそわそわしていたのを覚えている。アートをめぐって島と島とを渡っていく。「スタンプラリー」とあの人は言ったっけ。フェリーやバスの時間を気にしながらも、わたしたちはたのしく島をめぐった。

 それと比べると、今回の豊島はとても静かだ。五回目の芸術祭も終わったひっそりとした日付だった。十二年。「ひとまわり」という時間の単位が回り、島は変わっただろうし、わたしの方だってずいぶんと変わった。雨風にさらされる作品は色を変え、ところどころ朽ちたり錆びたりし、そして新たな作品が芽吹くように設置されているはずだ。アートの新陳代謝。

 突然放り出された豊島で、目的としていた犬島行きの船はないことを知り、帰ろうと思ったけれども、帰りの船の時間まで二時間ばかり。そのあいだずっと海を眺めているわけにもいかないから、自転車を借りて探検をしてみることにした。思いがけない時間を楽しむことができるようになったのも歳をとった効果のひとつだ。

 この島に、ひとつ、見るべき作品があった。それをめがけて自転車を上の方へと走らせる。息を切らせながらのぼっていくと、時折、木々の隙間から海が見えた。

 自転車でたどりつけるギリギリのところまで進み、そこから先は歩くことになる。

 今回はひとりの旅。山道を登っていくのもひとりきりのはずだった。それなのに、気がつくと目の前を進んでいく背中を追っていた。

 それは、女性の背中だった。彼女もまたひとり。わたしの前をゆっくりと進んでいく。わたしは彼女を追い越さずに、その背中を見つめながら登っていくことにした。いっときの旅の友だ。

 わたしは密かに彼女の人生を想像してみる。だって、いったいどうしてこの島にひとりでやってきて、この道を進んでいこうとするのか。この道を進んでいく理由はひとつしかなかった。この先には、ある作品がある。この道は、その作品にしか通じていない。その作品を観るだけのためにこの道を登っていくのだ。

 彼女はどこから来て、なぜその作品を見ようとしているのか。私は妄想する。


 わたしがこの島に来たのは、はじめて。かれの作品があるこの島を、かれが生きているあいだは訪れることはなかった。一年前にかれを看取って、その前後はわたしは自分の作品を作ることができなかった。かれは有名なアーティストだった。偉大なアーティストかと言えば、そうだと思う。そして、それは、わたしも同じ。わたしも彼と同じくらい偉大なアーティストだ。ヴェネチア・ビエンナーレでフランスを代表したのは、わたしが先だった。わたしは高い評価を受けていた。それでも、かれの作品にはわたしの作品の十倍の値段がつけられていた。講演やインタビューの依頼を受ける数もかれの方がずっと多かった。作品を発表することにまとわりつくそのような数々の物事を目にして、わたしは、名前を伏せて作品を発表した方がましなのではないかとも思った。ざらざらとした感覚が身を包む。

 かれとはいつも並行して、決して交じり合わず、それでも一緒に制作してきたと思う。それぞれにスタジオを持って、わたしたちが互いに干渉することはなかった。当時「女性のアーティスト」なんて呼ばれる類の人はほぼ見当たらなくて、同業者をパートナーとしたのに、わたしは孤軍奮闘していた。かれはわたしを理解したが、同時に女性アーティストというものを理解しなかった。理解しようとも想像しようともしなかった。わたしがどんなところに置き去りにされているのか、かれには分からなかった。

 たとえばここにある作品!いくつもの細い棒が地面に突き刺さっていて、その先には風鈴が吊り下げられている。

 そもそも細い棒の先に何かをくくりつけるというのはわたしのアイディアだった。かれはそれがわたしのアイディアだったことに気がついてもいないだろう。わたしは自分で制作したイメージや自分で縫ったぬいぐるみのようなものを細い棒の先にくくりつけた。ひとつひとつの棒の先には、どれひとつとして同じではない、がらくたのようなものを突き刺した。ひとつひとつが異なっていて、すべてのものに愛着があった。そしてそれをずらりと並べた。それに対して、かれが棒の先に付けたのは、すべて同じ風鈴だった。量産された、なんの変哲もない風鈴。ガラスの風鈴であれば「趣」というものがあるかもしれないが、かれが選んだのは金属のシンプルな風鈴だった。かれはそれを細い棒の先にとりつけ、それに「アニミタス」という名をつけた。

 アニミタスには透明の札が吊り下げられていて、それがちらちらと光を放つ。その札にはそれぞれに何か文字が書かれていた。その文字は、名前のようだった。風に揺られて、陽の光を浴び、そのときに風鈴は生命を授かる。ここにあるすべてのアニミタスが同じように、光を浴びて、同じように風にさらされ、そこに立っている。そのうちのどれかがクリスチャンでその隣に立つどれかがわたしだろうと想像してみる。ここでは同じように、どれかが入れ替わっても分からないくらい同じようにそこに立っている。

 風鈴がかすかな音を響かせる。これがクリスチャンがわたしに聴かせようとした「声」だろうか。わたしにここで、何を聴けというの?ひとつの札を手に取って眺めてみた。ここに書かれたものが、誰かの名前だとしたら、それはきっと、もういなくなった人の名前だろう。クリスチャンの作品は、だいたい「もういなくなった人たち」のための墓標のようなものだったから。

 ふと気配を感じる。だれかが森の中にいた。女性がひとり。この作品を観にきたのだろうが、彼女はひとりぼっちだった。そしてわたしがここにいることに無関心で、アニミタスの声に耳を傾けている。ここにいるわたしとここにいるあの女性では、聴こえる「声」は違うのだろうか。まったく違う場所で生きてきて、おそらく年齢も違っていて、それなのにこの場所で同じ時を、同じ音を分かち合う。この出会いをなんと呼ぼう。この作品が可能にした出会い。そう考えるとわたしはクリスチャンのことがとても羨ましくなった。かれの作品はかれがいなくなったあともずっとここにあって、誰かを惹きつける。わたしはいつかは忘れられてしまうかもしれない。わたしたちの文化は、女に名を与えず、名もなき者たちにしてきた。すくなくとも、わたしのような一見名を得た女にもそのような不安を抱かせる文化だった。そう思うとアニミタスの声はかすかな呻き声に聞こえてきた。

 目の前の女性と目が合う。わたしは彼女が考えていることを想像してみる。


 豊島にこのアニミタスという作品が設置されてから数年が経っていたが、わたしが実際にこれを見るのは初めてだった。映像では何度も何度も見たことがある。庭園美術館でアニミタスの映像を見て、それは個人的な記憶に結びついていた。遠い日に投影されていた映像の風景を、今この土地に立ってこの目で見ている。風鈴の音は映像の中でも現実の世界でもかすかに聞こえるくらいだ。

 昨年亡くなったこのアーティストの作品はわたしの長年の研究対象だった。あえて過去形で言うのは、今はそうではないからだ。だから、このアーティストがどのような作品を作ってきたのかは知っている。かれはとにかくものを集めてそれを作品にした。かつて誰かに属していて、今は誰にも属していないものを集めていた。誰かの古着、誰かの顔写真、誰かの名前・・・

 ただ、ここにある作品は他の作品とはちょっと異なっていて、ここで集められている風鈴自体が、誰かの持ち物であったわけではない。この作品は「アニミタス」と名づけられた。「アニミタ」とはスペイン語で「小さな魂」を意味する。吊り下げられた風鈴は、「小さな魂」に見立てられている。それはフェイクの魂。だれかの魂っていうわけではない。それでも、それは過ぎ去ったものたちのささやく声に聞こえないでもない。いや、むしろ、それを耳にする私たちが、そこに過ぎ去った人の声を求めている、だから、そう聞こえるのかもしれない。

 わたしはこのアーティストの声を聴きにきたのだろうか?

「小さな魂・・」ふと声が出た。この十年間、いや、もっと長いあいだ、金魚鉢のなかで生きてきた。どこに手を伸ばしてもガラスがガツっと当たり、わたしは手を引っ込める。最近になって、社会全体がおじさん構文で、そこからは逃れられないことに気がつく。遡ればソクラテスからしておじさん構文なのだ。わたしは男性のアーティストの研究もやめ、男性の哲学者の意見に耳を傾けることもやめた。そうすると、「歴史」はたちまちにして消え去る。そのゼロの地点から、わたしはあらためて、埋もれてきた声を探し始めた。今まで見てきたものが、まったく違うものに見えた。ひとつひとつが別の言葉をささやき、別の物語を語っていた。わたしの目ってなんて節穴だらけだったんでしょう!

 そう思ったとき、目の前の女性からふと笑い声が漏れた気がした。今わたしの耳には、この風鈴、この作り物の小さな魂の奏でる音は、かすかな呻き声だ。彼女はこの音をどう聴いているのだろうか。

 目の前の女性は、アニミタスのひとつひとつの札を手に取ってみている。札に書かれている名前は、この場所を訪れた人の「大切な人」の名前だ。もしかしたら、彼女はだれかの名前を探しているのかもしれない、と思う。そうだとしたら、だれの名前だろう?自分自身の名前じゃないかな?


 これはだれの名前だろう?日本語で書かれていると思われるものは、わたしには読めない。アルファベットで書かれた名前もたくさんあったが、どれも知らない名前だった。かれは名もなき人びとのものを集めていたので、知らない名前だらけでもそれは当然のことだと思う。もう死んじゃった人たちの名前かな。あるいは、この場所に来たことのある人の名前とか?わたしはひとつひとつの札を手に取りながら、だれかの名前を探していた。知っている人の名前を見つけたところでどうということはないけれど、ここでだれかの名前を見つけたい、と思った。この深い森のなかにだれかの名前があって、それらがかすかな声を発し続けている。

 わたしはふと自分の作品のことを考える。わたしが作品を作り始めたころ、女性がアーティストになるということは稀だった。不可能だったと言ってもいいかもしれない。美術学校には女性の学生の方が数が多かったというのに、作品を作ることを職業とした女性はほとんどいなかった。かつてアーティストは職業のひとつだったために、家庭外の仕事をすることが許されていなかった女性たちがアーティストになることは不可能だった。今では女性たちは家庭外の仕事もするが、アート界ではまだ作品を作ることを生業にできる人はほとんどいない。アート市場は差別的だ。若い頃にアーティストを志していた女性たち。みんなどこに行ってしまったのだろう。

 わたしがこの場所でだれかの名前を風鈴の下に吊り下げるとしたら、彼女たちの名前だろうと思う。いなくなってしまった女性のアーティストたち。彼女たちの名前をここに書こう。

 そう思ったそのとき、突如として、魂たちがけたたましい音を鳴らし始めた。わたしたちはぎょっとして、目を合わせる。大きな狼が駆け抜けていったのではないかと思えるような、大きな音。それはその場の軸を変えたが、一瞬にして消え去った。まさに、大きな大きな狼が駆け抜けていったように。そして風鈴はもとのようにかすかに音を響かせるだけになった。狼はもう戻ってこない。狼はもう去った。狼はもう過ぎ去った。わたしたちは再び目を合わせ、彼女は微笑んだ。


 魂たちのけたたましい音。それを聞いて、わたしはそろそろ港へ向かわなければならない時間だということに気がついた。帰りの船を逃すわけにはいかない。

 この島にはもうひとつ同じアーティストの作品があるが、今回はわたしはあえて、その場所には行かない。そこには大量の心臓の音が集められて保存されている。十二年前、わたしたちはそこで自分たちの心臓の音を録音した。録音された音を聞いてみたが、ざわめく破擦音は、自分の鼓動とは思えなかった。その当時のわたしの心臓の音を、もう聞く必要はないだろう。わたしはその音をここに残しままま、島を後にする。

 思いがけずこの島に漂流してしまって、思いがけずアニミタスを観た。人生のタスクをひとつ片付けた気分になる。いつかは観に来なければならなかったから。

 わたしはアニミタスに別れを告げ、自転車で坂を下っていく。スピードを出すと海へと転がり落ちていきそうに思える。慎重に進んでいくと、若い女性たちの乗った自転車がわたしを抜いていった。海が輝いていて、木々が日差しを浴びていて、それと一緒にわたし自身が光を受けていた。アニミタスの声が頭のなかでかすかに響いた。



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この物語はクリスチャン・ボルタンスキーの《ささやきの森》にインスパイアされて構想されました。This story is inspired by Christian Boltanski's La forêt des Murmures.






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